経済同好会新聞 第183号「国民の気持ち政府知らず」
国民の気持ち政府知らず
実体経済も現実の営みに無知な財務官僚
小泉政権以降の国家毀損が止まらない。経済無知故に、どの政党になろうと財務省の意向を鵜呑みにする政権が誕生してしまうこと、これが国民の命運を決めてしまうのだ。人が死のうと財政規律、人が困っていようと財政規律、科学が衰退しても財政規律・・・
道徳は行き過ぎると自由を失うが、財政規律は行き過ぎると国民の命に関わる。道徳は大切だ!守れ!と言われれば多くの人は否定出来ないだろう。この論理を財政規律を守らせるために利用しているのが財務省という力の使い方を間違えた権力なのだ。お腹をすかせた人々に対し、規律を守れ!何とか凌げ!というわけである。
規律とは人が生きていないと意味がないではないか。規律で人が死ぬのであれば、それは殺人である。
政治家はこれら暴走機関である財務省を制御し、財政出動しなければならない。政治家が国民・国家を守らなければ、憲法違反で全員逮捕すべきだ。政治家の妥協に次ぐ妥協が原因で、国民は絶大なる犠牲を支払って来たではないか。
幸福な人間が良い気分でいられるのは、不幸な人々が自己の重荷を黙々と担ってくれているからに過ぎない(アントン・チェーホフ)
ロシア人のチェーホフはこのように述べたが、日本の政治家は我が国を後進国化させているといっても過言ではない。何を優先して守り、その守るべきものは何によって阻害されているかを分からぬ政治家は必要ない。
かつて、ケインズはこう述べている。
今日、経済学にとっての主要な課題は、おそらく、政府の「なすべきこと」と「なすべからざること」を改めて区別し直すことである
国民の貧困化、多方面での衰退が見られる日本において、政府はなすべきことをしていない重大な事実がある。それは適切な財政出動だ。要所要所で財政出動をして来なかったツケは、全て国民が被っている。
国の借金のデマを自ら垂れ流し、わざわざ国民に負担を負わせ続けている。
もし、政府がこれまで消極的な財政出動ではなく、適切に財政出動をしていれば、これまでの企業も国民の努力も報われたのだ。
政府のさじ加減ひとつで、同じ努力でもそれが生かされ、何倍にも何十倍にもなって経済に還元と循環が起きて右肩上がりで豊かになる。これが終身雇用の実現であったり、閑職であろうと企業には余裕が出来る日本型経済システムだった頃の姿なのだ。それを小泉政権以降、やめてしまいこの様である。
エリートの暴走
暴走はエリートのみならずであるが、暴走時の心的状況とはどういったものだろうか。他者から批判を浴びようが反対されようと、自分自身が正しいと無意識に説得することで、理性が働いているつもりになっている状態だ。同時に、他者のせいにしていることも瞬時に行われている。常に自分が正しいメカニズムはこうして起き、実行することで暴走に至る。
酔っ払いが酔っ払いと認めないことと同質だ。