努力が報われない社会
主流派経済学者が遺した将来のツケ
学問は現実との整合性をとるため常に観察を続けるものだが、主流派である経済学者はそれを怠ってきた。彼らは財政赤字(国債)は将来世代の負担になると言っているが、どう負担になるかを明言しない(出来ない)。負担があるとすれば、今ある資源を使い切ることで、将来世代が使えなくなるということだろう。
例えば、規制緩和で民営化が行われ、経営が芳しくなくサービスが行き渡らなくなり、質が下がったままの状態で将来世代にそれが継承される、これは明らかに負担だ、これは明らかに負担だ。このような負担は国力の弱体化を意味する。財政赤字を心配した結果、失われた20年と呼ばれ、今もなお継続している。財政赤字が悪いわけではなく、営みのある人間にとって負担を残す行為こそが悪なのである。
大前提を「財政赤字は悪」だとすることで、人の営みはこの時点で人質に取られることと同義なのだ。財政赤字自体は善でも悪でもないのだから。
論理的に有り得ない
財政赤字は将来の増税を意味しているとする主流派経済学を物真似する、政治家やインフルエンサーがいる。これは驚くべき話で、財政赤字はそもそも償還される必要はなく、課税のレベルは自由に決定できるのだ。財政赤字が税のレベルを決定しているわけではない。彼らの論理にしたがえば、財政赤字だ!増税だ!とやって衰退した日本は、まだまだ衰退することになる。実際に主流派経済学の過ちで衰退した国は日本だけではなく、イギリスもアメリカも衰退と毀損の経路を辿ってきたのだ。各国の主流派経済学者はそこから脱却している最中だ。彼らもMMTを正しいとは言わないが、明らかに寄せて来ている。
報われない努力
あるお金持ち曰く「運ですよ。運。たまたま稼げるようになっただけです。努力もしましたが運が良かった」と、このように述べる。一方で小金を持っていることを大げさに自慢したり、納税額が多いことを事ある毎にひけらかす人もいる。人間性に帰結するのだ。
全体的に見ても成功者と呼ばれる人は一握りしかいない。彼らは努力で成功したかのように見えるが、それは他の誰かが成功者になっていたかもしれないのだ。時期と周囲の環境とその本人の向上心が上手く合致したからであろう。
貧困層は政府の経済政策を誤ったために努力をしても報われていないことは事実であり、むしろ構造改革によって生み出されてしまった。それを無視して貧乏人に発言する権利はない等という傲慢不遜な者も存在している。イギリスの科学者アイザック・ニュートンは過去にこう述べている。
私が遠くを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗っていたからです
成功者と言われる人というのは、かくも謙虚である。私達が使う言語である日本語も、先人たちの肩に乗っているからであり、多くのものは大昔からの継承があったからこそだ。
働いても働いても暮らしが良くならない、税金や固定費の支払いで余裕がない人が増えたのは、政府の失政の連続によるところが大きい。努力が報われないのは、政策がおかしいからに他ならず貧困化の椅子を配っている派遣企業を規制強化しないのも大きな要因だ。