「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第270号 「要なき知識と言論」

要なき知識と言論

要なき知識と言論

要なき知識と言論

求められる教養とは

 浄土を論ずる者常に多けれども、その要を得て直ちに指(おし)うる者あるいはすくなし親鸞聖人 承安3年~弘長2年 / 1173~1262)
 加田岡降昭氏はこれを「仏の教えを論じる人は多いが その要を教える人は少ない」と訳す。経済とは経世済民の略であるが、意味は「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」である。つまり、経済学は大前提に現実を分析することが求められている。その経済学が現実とかい離した際には、これを教えられる者が教師でないといけないが、IS-LM分析(国民所得と利子率を用いて財市場と貨幣市場の同時均衡を分析すること)に固執していては、現実とのかい離を説明できない教育者が量産されてしまうのである。
 教育に必要なのは、親鸞聖人が指摘する「要(かなめ)」をきちんと教えられることである。多くは念仏を唱えることや、形式を覚えてそれを教えることに力を注ぎ、肝心要のことは教えない。否、その本人が要が何であるかを理解していないため教えられないのだ。
 恐ろしいところは、基本中の基本である「不景気の際は減税の措置をとる」ことを無視し、経済学者から増税の議論が未だに出ているところだ。現実はデフレであり、長年の経済停滞から脱却していない事実を叩きつけられながらも、彼らは一貫して増税なのだ。
 当新聞で何度か書いてきたが、彼らは資本家に忖度しているためであることと学者としての矜持を捨て去 った御用学者に成り下がっていることである。これは経済学以前の話であり、国民より資本家のために生きることを選択した者や、批判を恐れ間違いを認められず、意固地になっている者もいる。経済学者は国民経済を背負う覚悟を持つ気構えが必要だ。要を知り要を教えてこそ、尊敬される教育者足り得るのである。

 

肩書になびく人達

 権威を利用したプロパガンダは、いわゆる保守と呼ばれる者達がよくしている手法ではあるが、歴史を知る者は彼らを保守と見做さず、むしろ革新的極左と見ている。マイケルオークショットの言う保守とは「見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを」と述べている。小泉政権、安倍政権や現在の菅政権は、構造改革を推進する民営化やグローバル化路線であり、保守とは真逆なのだ。彼らは愛国を名乗る、或いはそのような言動をするが、やっていることは売国である。安倍応援団は典型的な「界隈では有名人」を集めた、権威的効果で大衆の支持を得るためのもの。その彼ら支持者は現実を見ることなく、ただただスピーカー役として機能している。
 このような現象はいわゆる保守界隈のみならず、権威を盲信することで起きる現象だ。権威自体が大衆の分断を意図しない場合は、権威自らまとまるよう説得するだろう。ところが、ネタを提供して大衆に批判させることに終始しているため、保守でもなんでもない。脊椎反射で罵倒する者や批判者が後を絶たないのは、彼らもまた要を教えられなかった犠牲者である。
 肩書きはカテゴリーを見る意味では非常に理解しやすいが、人間性までは担保されていない。そのため、肩書で人を判断するのではなく、内容で判断することが非常に重要なのだ。