馬鹿にして衰退する日本
新自由主義との決別なるか
前号でも記事にしたが、我が国の実態は衰退と停滞であったこと。小泉政権時代の自民党はメディア戦略もあってか、それを継承する形で第二次安倍政権下では、「保守」と呼ばれる政治家や評論家がもてはやされてきた。もてはやす支持層自体が保守とは何かを知らないため、騙されてスピーカー役をさせられてきた格好だ。
歴史から見ると伝統的保守とは、いわゆる「社会主義的」な要素があり、その時期の方が長かった。イギリスの保守政権が社会主義的な政策をしたことがはじまりであるが、新自由主義的な政策はサッチャー以降のおよそ三十数年になる。したがって、社会主義だ!と批判する我が国の保守派は、愛国心を気取るのみであり、内実は極めて新自由主義的な振る舞いである。事実、対米従属の姿勢は、到底保守的とは言えない。
社会主義を彷彿させるものとして「一党独裁」があるだろう。圧政と不平等のイメージを持つ人は少なくない。その一方で行き過ぎた自由主義のため、我が国はどうなっているかは想像に難くないだろう。市場原理主義の思想が広まり、「儲からないものは無駄」だと斬り捨てるような言動をする声の大きい者が大手を振ってビジネスをしている。非正規雇用や移民(低賃金労働者)を是とする彼らを自由にしておけば、不幸な国民が増えることは論をまたない。
では、かつての我が国の護送船団方式を社会主義だと批判する向きはどうだろうか。政府が民間部門に投資する、いわゆる「大きな政府が社会主義といって切り捨てるのならば、不幸な国民や移民が増えることを容認するに等しい。一口に社会主義と言えど、国民の自由が守られながら発展していく護送船団方式がかつての日本の姿である。この姿勢は社会主義・自由主義の欠陥を克服してきたものと見ることが出来るのだ。つまり「ええ塩梅」にまとめて来たと評することが出来る。まだまだ改善の余地があったものの、バブル崩壊以降、新自由主義に取って代わられた次第。
行ったり来たり
歴史が示すところでは、社会主義と自由主義が行ったり来たりしていること。伝統的保守は社会主義的であった期間は長かったが、その後には自由主義が押し寄せる形だ。二十世紀後半では、ソ連の偏った社会主義は自由主義を脅かし、保守派が自由主義に寄っていったことからも理解できよう。ところが後の祭り。次は偏った新自由主義で各国に弊害をもたらしてしまった。我が国もこのあり様だ。
極端にナントカ主義に偏ることで弊害は付き物であると理解しなければ短絡的に社会主義が!等と浅薄な言動をしてしまうのだ。格差拡大で弱者が出ようと、自己責任で片付ける愚かしい者が出て来ることも、偏った思想故だ。加えて、いわゆる国の借金のデマで救済すべき人を救済しない大矛盾を起こしている。助けられるのに助けないのだ。むしろ、助けるよりも切り捨てよと言うのである。思考停止、あるいは考えることをやめた人間というのは、このように背負う物がなく楽で仕方がない。無責任で言いたい放題である。
経験だけで歴史を見ない、歴史の一部のみを切り取り復古を掲げる者が出る始末だ。人間の思考方法は大昔から変わっていないのだろう。そのため、石橋を叩いて渡るべく、保守的態度が望ましいのだ。偏ること勿(なか)れ。