「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第345号 「税金の無駄使いの本来」

税金の無駄使いの本来

税金の無駄使いの本来

本当にそれは無駄なのか

 人間の感覚は人によって様々あり、それ故に曖昧になることも日常茶飯事だ。このような曖昧さは、モノサシで測ることは出来ない。人の感情にしろ、このような「読めない」ことだらけである。経済学もさることながら、社会全般に必要なのはこのような不確実性を取り入れる視点だろう。これは当新聞第297号「余白の美」につながる話で、不確実なことへは余白(余裕)を加味することが肝要だということになる。「これさえやれば無駄はなくなる」といったマニュアルは全ての人間に当てはまることはなく、そのため、「無駄の削減」という言説には細心の注意を払う必要があるのだ。無駄と思って削ってきたことが、コロナ禍における大阪の特別定額給付金の対応は全国でもワーストであったことが示すように、典型的な悪例である。
 教育や科学等のような将来への投資は計測できるものではなく、これを型にはめた成果を求めるようになると、我が国のように凋落するのだ。無駄と言い、国費を縮小するのだから当然の結末である。災害でダメージを受ける農業、インフラや国民の安全にしろ、モノサシで測ることは出来ない。今は無駄に思えるかもしれないが、非常時には「これのおかげで助かった」ということも出て来るだろう。食の安全にしろ、守るべきことはたくさんあり、これらに採算を求めるような姿勢こそが本当の意味での無駄であり害である。

 

忘れられる無償の支え

 親は子供を育てる際には見返りを求めないように、政府にもこのような側面は存在する。それは行政によるサービスだ。所得のない者からは徴税しない、あるいは補助金によって企業や国民を支えること等もそうだ。ところが、均衡財政という収支のバランスを気にするあまり、子供から見返りを求めるようなことをしだすのである。財政は赤字だ、無駄の削減をしなければならないといった具合で、無償で支えることを半ば放棄するのだ。親で言えばDVのクズということになろう。パソナ電通には中抜きをさせるためのお金は出すが、国民を支えるためのお金はケチる。
 政府が無償の支えを忘れると、クーポンにはお金を出そうとする遠回りなことをやりはじめる。何を優先すべきで何を守るべきかが分からない政治家は、害悪そのものだ。国民にボランティアは募るが、行政のサービスはケチる。このような愚行は、収支で物事を決めようとするからであり、財政規律がそうさせている。
 不確実性である測れないことを収支で測るような行為は相当に稚拙であり、日本の没落に寄与しているのだ。政治家が無駄の削減とやりはじめる国家は、例外なく新自由主義的な発想に基づいている。政府がお金をかけてでも「残す」ことや守ることを無駄だと断じ、規制緩和させるビジネス屋がいるところもセットである。何に対しても採算を求めるような思想に陥り、先たちが脈々と築き上げてきた風土や慣習すら破壊する。築くより破壊は容易であり、この者達は反省することもない。問題になれば逃避するのみで、国民も忘れてしまう。
 本当の意味で将来世代のツケとは、このような負の遺物を残すことに他ならない。加えて、税金の無駄使いとは、弱者からも容赦なく徴収する、「無駄な徴税」が本来の意味であろう。未来永劫こんなことをするのか。

 

 

マクシム様
投資効率の弊害