経済同好会新聞 第366号 「国民生活の安定化」
国民生活の安定化
人と経済を切り離すことなかれ
「経済」と聞くと、なにやらお金やその社会全体の流れがあり、これは難しいことであると想起する人は多くいるが、お金を使うのは国民全体であるため、人間と経済は切り離して考えてはならないことは大前提にある。
人間は生活を営んでおり、そのような中においても、その時々の感情によってお金の使い方は安定的ではない。経済が後退した時は、失業する等で生活が脅かされることもある。税金や社会保険料が高くなれば、今まで買えた物やサービス等の何かを削らないといけなくなる。事故や病気も出費がかさんだり、労働に支障をきたすことも考えれば、国民は安定さを求めることは必然であろう。
深刻なのは、景気後退期の大規模な失業だ。これまでの政府は何かあれば、どっこらっしょと重い腰を上げて後手後手に支出したり、その間の失業者の生活は犠牲にする。老舗の会社が倒産したり、少なくない企業も倒産してきた。政府が経済を自動で安定化するよう志向したならば、後手後手に回ることはありえず、経済的理由による自殺者を出さずに済み、失業者の生活も脅かされずに済んだのだ。自動で安定化を図る意味は、即時に安定化する仕組みだ。税制で言えば、累進課税である。国民生活で言えば、困窮者を出さない・貧困化で不安定化しない「底」を即応的に構築される仕組みだ。これらの安定化する仕組みは、経済の後退から国民を即時に救済するもの、政府による雇用の保証だ。
経済の不安定は政治の不安定
官僚答弁が横行し常態化した安倍政権。これほど言葉が「方便」として使われたことはなかったのではないか。例えば、「景気は回復基調にある」という言葉は、国民生活と乖離していた。言葉で誤魔化す、抽象的な言葉で煙に巻いたりする言論人がメディアに出演する等、これだけでも我が国は非常に厳し状況下であると見做すことが可能なのである。なぜか。「問題の矮小化」が起こり、実際の国民生活は蔑にされているからだ。
言葉はコミュニケーションの道具として役に立っていることを考えると、言葉を適切に扱わない者はそれだけで信用足り得ないのである。日本語を扇動のツールとして用い、それで扇動されてしまう人々の言語感覚の後退を憂うものだ。扇動する者が一方的に悪いに決まっているが、とすれば、それを見抜くことを言語を通して身につける必要があることを意味する。これは文化なのだ。
政治家の政策を見抜く以前に、事象に対して彼らが真に迫らず抽象的でぼかしていることが分かれば、即座に信を置かない、あるいは留保したり警戒すべき対象とすることが肝要になるだろう。これと同じくするのが、メディアに出てくる経済の記事。国の借金は何であるかを具体的に述べず、国民の側に大変であると解釈させるようになっている。経済学と現実との乖離によって、このようなジョークも生まれているのだ。
経済学の期末テストの問題は毎年同じだけれど、答えは毎年変わる。
それだけいい加減な学問だと見做されているのだ。人間の心理は数式で表すことは不可能だ。不確実性を加味した経済学でなければならず、政策に余裕を加味させる必要があると嫌でも分かるだろう。無駄の削減と言っている阿呆はいい加減だ。