「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第371号 「機能しない国家」

機能しない国家

機能しない国家

機能しない国家

自由も道徳も破壊する「エリート人」

 実は当新聞の3つ前の記事から前号は、グローバル化について述べている。グローバル化を受け入れた西欧は伝統文化が希薄になったが、我が国も例外ではない。希薄になる原因はエリート層からはじまる。どういうことか。自国に住まい、地元に住み続ける人々にとっては文化や慣習は右へ倣えではないけれど、営みの背景にある。これを古いものは新しく改革だ等と言い始めるのはほとんどはエリートであり、グローバリズム新自由主義的な思想を持ち込んで来たのも彼らだ。
 この場合のエリートとは官僚を指して言ってるのはなく、文化の破壊を顧みることなく、ビジネスのためなら政治に圧力をかけルールを変えてしまう者。更に、「多様性」等と言い、移民を受け入れることに情緒論で諭して来る者達もそうだ。これら方便はグローバル企業に利用されており、移民は低賃金労働者として雇用されるのである。これらについては、移民と自国民とのパイの奪い合いになる懸念は長らく指摘されており、そうであっても自公明与党はごり押ししてきたのだ。背景には政治的圧力をかけている特定企業があってのものだろう。誰が自由と道徳の破壊者であるかは推して知るべしである。

 

多様性という非多様性

 文化は昔から脈々と続く慣習により成り立っている。これを古いと言って切り捨て、新しいと思われることを受け入れることが多様性だと思っている人達が危険なのは、その文化をなくせばこれに紐付く多様性が消失することを考えていないからだ。多様性をうたうことには、熟慮が必要不可欠である。あれを受け入れたら、こちらのいくつかを失ってしまったという本末転倒は、多様性という言葉が方便化し、実は多様性を破壊してしまうのである。
 これと同様に深刻なことが「無駄の削減」だ。例えば、津波や河川の氾濫に治水事業として支出していたものを、強固にすることなく逃げれば良いとして公共事業を削減する等がそうである。これは国民生活の安全保障の問題であり、削減を提言してきた者は大罪人だ。更に、モノは外国から輸入すれば良いとして、築き上げてきた内需を蔑にすることもそうだ。この場合は「構造改革」であるが、「多様性」にしろ言葉を方便化する「エリート人」が我が国を牽引したことで、衰退させた事実は揺るがない。
 多様性という言葉を用いる者は次の通り。

 

 ・ビジネス屋の金儲け

 ・金持ちの自己満足

 

 これら「エリート人」に共感した人達が新自由主義的な思考に陥っているところも特筆すべきであろう。多様性とは、確固たる土台があってのことだ。この土台を破壊してまで多様性を受け入れようとすると、それはもはや非多様性である。
 元々あったものを排他していては、多様性をも って多様性を否定する本末転倒が起きていると理解すべきだ。したがって、多様性を論ずる場合は熟慮が必要だと言うのである。構造改革や税制改革に然りそうなのだ。改革という言葉のつくもの、その反対側で多国籍企業が潤い、庶民の生活の質は下がった。
 多様性という言葉が方便化した時、「相手を言いくるめるための手段」になりうる。言葉を尽くすこともなく、いかにも新自由主義的な振る舞いではないか。

 

 

ツェリ子様
自国民に厳しい政府