「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第382号 「現実を見るということ」

現実を見るということ

現実を見るということ

現実を見るということ

花に感動した老人の話

 現実を見るとは、そのものをストレートに理解することである。咀嚼することだ。ある老人が、「私はこの歳になってはじめて花というものを理解した」というのだ。咀嚼するとは、花の名称や構造を隅から隅まで知って覚えることではなく、花そのものの生命を理解することである。エリートはこれが出来るのか。エリートのみならず、一般人も「頭の知識」だけで花を見ているのではないか。花を例としているが、他のことに置き換えても同様である。花を人間に置き換えた時、更には人間社会の営みを現実のものとしてストレートに理解していれば、財政規律を優先して国民を後回しにする経済政策を数十年単位でやらかすことはなかったのである。これは、エリートの劣化という他はない。同時に政治家の質も相当なものだ。安全に対する政策の組み立てが劣悪なのは、推して知るべしである。

 

「痛み」にご用心

 人が痛む時、その苦痛が続けば続くほど身体と精神は疲弊する。現金なもので、痛みから回復してしばらくすると、痛みを忘れてしまうことも起きるだろう。だからと言い、痛みを継続させることでそれを覚えよという理屈は乱暴だ。痛みを知る、あるいは人の痛みを知るには実体験ではなく、そのような教育と教養に重点を置くことであろう。痛みで精神がやられていては世話がない。したがって、痛みを伴う改革や、身を切る改革は欺瞞に満ちた方便である。あるいは、本気でそう思っている本人達は思想的に幼稚であり危険だ。
 管理通貨制度である我が国にとって、「痛み」とはそれら発言者の独り善がりだ。人命より財政を優先させるとは、管理通貨制度であることに無理解としか言いようがない。理解した上での「痛み」であるならば、前述した通り欺瞞である。相当に独善的、傲慢不遜だ。このような言動をする者は、それこそ人の痛みはどういうものかを心底理解していないのである。他者に痛みを経験させようとするその姿勢からして間違いだ。
 病気等で一生痛みと付き合わなければならない人々の苦しみを知れば、その他の健常者に痛みを伴わせるという発想は出てこないはずだ。自らが痛みを知りながら、他者に同じ思いをして欲しくないと人助けをする人がいる一方、自分と同じ痛みを味あわせることに罪を感じない人もいる。この両者は何故、ここまで差が出るのだろうか。この場合、両者の幼少期からの精神面や現在に至るまでの背景を見ないと何とも言えないが、必ず何かあってのことなのだ。金や保身のために多くを犠牲にすることに罪悪を抱かない心的状況にある者がいる事だけは間違いなく、こういう者達は早々に退場させなければならない。

 

 上の悦び下の痛み(かみのよろこびしものいたみ)

 

 ことわざの意味は、上に立つ者が私利私欲に走ることで、人々の苦痛の元となる。これは政治のみならず、ビジネスであろうが家族であろうと同様だ。一国の総理大臣が財政出動に「中抜き」を容認し、外国に支援はするが自国民を疎かにすることに通ずる。国民がどのような状況にあるかを見ていないのだ。あるいは、「犠牲はつきもの」として高をくくっているかのどちらかである。。痛みを知るべき人間は、自国民を粗末に扱う者だ。

 

 

ツェリ子様
水のビジネス化を選んだ宮城県知事