「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第389号 「分別がつかない人達」

分別がつかない人達

分別がつかない人達

分別がつかない人達

競争原理を持ち込む腹黒さ

 分野によっては市場で競争することはあっていい。効率性が人々の生活を便利にした事実は認めなければならない。しかし、人々の生命に関わる水道や電気のような必需品や、大多数が密着するインフラ等は市場化して競争に晒すことをしてはいけない。そこは常に安定さを保持しておくことが必要であり、これは人々にとっての土台である。この土台は公的機関が担うことで、安定的な供給が可能になるのだ。物事の分別つけず、民営化がー!とやってはならないのだ。民営化とは、誰のための効率化なのか考える必要がある。
 人間は根っからの不確実性の存在であり、それ故に社会生活は安定的でなければならない。加えて、我が国は災害大国であることも、不確実性が大きい社会生活に効率性を求めてしまうと、一握りの企業は潤うかもしれないが、他は負担が増すという本末転倒が起きる。安定性を保持するためには、政府が金を出してそれらに投資することが望ましいのだ。市場原理と社会の安定化はそもそも分けて考えるべきものであり、政府が民間企業の競争に口出ししないように、民間企業は社会の安定化にビジネスを持ち出して規制緩和させることをやってはならないのだ。例えば、郵政民営化でどうなっているかは、現状を見れば理解できよう。構造改革者は一掃せねばなるまい。

 

社会と経済

 人類史で言えば、人々が大きく関心を持っていたのは社会生活だ。生存欲求と生活の不安定化を避けたい欲求や共同体との交流が主たるものである。経済人類学と経済史を研究していた故カール・ポランニー(ハンガリー)は、社会と経済は異なると主張していた。市場取引が注目されるようになったのは、せいぜい160年ほど前であり歴史としては非常に浅く、ポランニーは社会と経済は区別して考える必要があると言っていた。更に、社会は安定させることであり、利益を上げるものではないとも。
 ポランニーの主張はいま我が国にとって切実に必要なものではないか。市場原理主義に汚染されている国全てがそうであろう。初心を忘れているのではないか。次のことわざは何を意味するか。

 

 駕籠(かご)に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人

 

 この意味は、世の中には様々な境遇や職業があること。社会には様々な立場の人がおり、社会が構成されている。の意。市場原理主義は社会構造を変えてしまい、人々の生活が破壊されてしまうのだ。人々の営みはどういったものかを理解していれば、市場原理と社会は区別して考えることは理の当然であろう。社会といわゆる経済が異なることは明らかである。
 人々の生活を便利にするビジネスは歓迎すべきかもしれないが、生活を脅かすビジネスは詐欺師がやることだ。見よ、口が上手い彼らは、構造改革が足らないと言い、社会インフラまで規制緩和しろと言っているではないか。このような輩が出てくるため、国民を守るために規制があるのだ。それを社会主義がー!とレッテルを貼り、大衆を扇動して規制緩和にこぎつけようとしてきたのである。
 昔の日本型経営システムは秩序だっていたのであって、社会主義でもなんでもない。行政の指導によって国民は守られて来たシステムでもあったのだ。それを破壊したのが、構造改革を推進した小泉・竹中政権である。