経済同好会新聞 第390号 「そもそも経済学とは」
そもそも経済学とは
経済学は社会を良くするのか?
現在、主流派である経済学はシカゴ学派の市場主義経済学であるが、これが教科書化している。市場主義は人を合理的な存在だと仮定しているため、自由で開かれた市場競争さえしていれば、無限に成長は可能だとする考えだ。そもそも、人間は合理的だったり非合理的だったりするため一定ではない。
経済学の元を糺せば、社会を変えて行くための運動であったり、政策の思想の意味が大きいものだった。経済学者で有名どころ、例えば、マルクス、ケインズ、シュンペーター、ラーナー、ガルブレイスやミンスキーも、これらに影響された人々も政策に役に立てればと思ってきたはずである。しかし、シカゴ学派が主流になったのは冒頭でも述べたが、これが極めて日本を苦しめている。理由は前号の「社会と経済」をご参照いただきたい。
経済学は政策の思想の意味が大きいと述べたが、マルクスは社会主義の文脈で批判されるが、思想として痛烈に批判を浴びてきた。シカゴ学派の市場主義も他ならぬ思想的であり、しかし、彼らは「科学」として経済学を精緻にしたということで、アメリカで主流になったのだ。これが世界に広まっていった。同時に背景には思想もセットであることを絶対に忘れてはならない。実際に我が国では全く馴染んでおらず、比較的上手くいっていた日本型経営システムは破壊されたのである。アメリカ型経済学が進歩的だと勘違いしたエリートは、現状の日本を見れば理解できるが以前より「退化」している。彼らは何を思うのか。
米国的思想
主流派経済学はシカゴ学派の色が極めて強い。これが「教科書化」したことは述べたが、市場主義というアメリカの価値観が入った経済学なのだ。判断の基準が能力であったり効率化であったりするため、これらの価値観によって決定されている。価値観とは思想的背景があることは論をまたないだろう。この価値観が世界に流入することを考えれば思想の流入に等しく、他の価値観は淘汰されていく。つまり、規制で「守られるべきこと」が規制緩和によって国民生活が守られなくなるという現象はこれに由来する。
余所の国で上手くいっていることを市場を開放せよとは押しつけでしかない。違う価値観を無理矢理持ってきたところで、馴染まずに淘汰されてしまう企業や国民は出るのだ。
思い出してほしい。経済学とはそもそも、社会を良くするためのものだと認識すべきであって、教科書化してそれに倣うものではない。我が国には我が国なりの文化や慣習というものがあり、資源や地政的な問題もあるのだ。加えて、米国の経済学が米国にとって相応しいかと言えばそうでもなく、格差拡大は未だに続いている。決して科学的な学問ではないのだ。
米国はグローバル化でも産業の空洞化をやらかしているため、それに続いた我が国も当然やらかしている。効率という名のコスト削減によって、「育む」ことを横着した結果なのだ。身を切る改革もこれと同様である。目先のコスト削減は、未来の投資をケチることと同義であり、余裕を失わせていくことは火を見るより明らかだ。
経済政策で結果が出ない、むしろ悪化したならばそれは疑ってみた方がいい。能力主義のようなものも、部分的には解であるが全体に当てはめる者はただの愚者である。