経済同好会新聞 第463号 「忘れられる本質」
忘れられる本質
当たり前が分からなくなった日本
日本経済が停滞してから三十年、阿呆のように増税に傾く政治。昔は「一揆」が起こるほど年貢に厳しか った時代もあったが、現在の我が国はこれとどう違うのか。政治が偏った結果なのだ。鷲田清一曰く、
グローバル経済。ずっぽりと組み込まれて、いわゆる国民経済が成り立たなくなっている。経済というのは「経世済民」を略した言葉で、世を治めて民の苦しみを救うという意味だ。ところが、企業は株主利益を最優先にしたグローバルな市場でし烈な競争を強いられ、最大の関心は自社防衛、生き残りになった。
このような状況になると人々はどうなるか、エーリッヒ・フロムは述べる。
(現代人の)すべての活動は経済上の目標に奉仕し、手段が目的となってしまっている。いまや人間はロボットである。おいしい物を食べ、しゃれた服を着てはいるが、自分のきわめて人間的な特質や機能に対する究極的な関心を持っていない。
このように地に足がつかない人々を多く生み出してしまうのだ。こうなると刺激を欲するようになり、それを心得ている有識者なるものがメディアに出て、世論誘導のために刺激的なことを言い出すようになる。そうして金の亡者である国外・国内の資本家が優位に立つよう大衆を誘導し、労働者にとって冬の時代が訪れしまった。高橋是清曰く、
資本が、経済発展の上に必要欠くべからざることはいふ迄もないことであるが、この資本も労力と相俟つて初めてその力を発揮するもので、生産界に必要なる順位からいへば、むしろ労力が第一で、資本は第二位にあるべきはずのものである。ゆゑに、労力に対する報酬は、資本に対する分配額よりも有利の地位に置いてしかるべきものだと確信してゐる。
株主が優位になれば労働者は奴隷の如く低賃金で働かされるようになる。これでは元の木阿弥だ。資本主義の危うさはここにある。金ある者が政治に圧力をかけるようになり、政治家が忖度するようになるのだ。このような現象はかつてイギリスで起きている。ここに道徳の欠片もないことは自明であり、したがって教養ある者が政治家になることが望ましい。選挙で有権者が投票することを考えれば、有権者も一定程度の教養が必要になることは論ずるまでもないだろう。
論理は整合してなんぼ
経済学の教科書と現実にかい離が生じれば、そこは考察を加えるべきだ。整合性を取らなければそれは学問でもなんでもない。ケインズ曰く、
経済学は論理学の一分野であり、思考の一方法です。経済学は本質的にモラル・サイエンスであって自然科学ではありません
更に曰く、
嵐の最中、経済学者にいえることが、「嵐が遠く過ぎ去れば波はまた、静まるであろう」ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく、無用である
現実は複雑だ。生物を扱う如く、単純にいかない。故に余裕を加味することが肝要だ。