国民の選別はナチスへの道
社会的弱者を切り捨てる風潮に警戒
かつてニーメラー牧師はこのような詩を残している。
ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は黙っていた。共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を収監したとき、私は黙っていた。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員を攻撃したとき、私は黙っていた。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を攻撃したとき、声をあげる者はだれも残っていなかった。
保身と事なかれ主義により、次第に声の大きい者に流され慣れ、ついには自らの首を絞めてしまう結果となってしまう。追いつめられた時に声を上げても遅いことを意味している。取り返しのつかない事態を目の当たりにしても、それから逃げるように押し黙ってしまう。実はこれと似た状況が我が国の自己責任論だ。
自己責任論の無責任さ
「企業を倒産させた経営者が悪い。リストラされた無能が悪い。貧困者は自己責任だ。」
このように批判された人達は常に罪悪感を抱き、他人から受けたレッテルを自ら受容してしまう。声を上げても自己責任だとされ、自信を喪失してしまい命を絶つ人もいる。自己責任論者は命を絶つ人にさえ、自己責任だと死者にまで押し付けるのだ。
実はこの自己責任論から透けて見えてくることは、彼らのほとんどが「考えることを放棄している」ことだ。社会的弱者を救うことから目を背けたい、或いは考えることが面倒なのだ。
ある者は合理的思考から、弱者や高齢者は非合理的存在として切り捨てようとするだろう。
ある者は誰かに付和雷同して自己責任論を振りかざす。全体主義に浸っている方が楽なのだ。こうやってナチス化している自覚もなく、他者を攻撃して自らの弱さから逃れることができ、かつ、溜飲を下げて精神の安定をはかる。
為政者は国民がこうなることを避けなければならず、つまり保守的にならざるを得ないのだ。
保守思想なき為政者
自民党逢沢一郎議員は「ゾンビ企業は退場」とツイートしたが、これも自己責任論がなせる業だ。自民党若手の安藤議員が暴露した自民党幹部が「持たない企業は潰すから」も同様。発想が排他的で救済前提に立っていない。
自然災害大国である我が国は、国全体で助け補い合わなければならない状況下にあることを考えれば、他者を排除する考えではやっていけない。潰すから、退場だ等と、政治家が考えることを放棄していることを口にした時点で大スキャンダルであり、政治家のとしての資質はない。ましてや人間性に難がある。
自己責任論は考えることを放棄した人達の方便になっているところが問題で、既に社会問題化していると認識すべきだ。紛れもなく、彼らは国民を選別しているのだから。
長年の緊縮財政と自己責任論は親和性が高い。なぜなら、犠牲者がたくさん出ていようと、貧困格差が出ていようと「自己責任」で済まそうとし、挙句の果てには「努力不足」だと容赦なく切り捨ててくる風潮から明白だ。
財務省は机上でしか物を見ていないため、現実がどうであろうと、財政健全化のためなら人が死のうと役目を果たすだけ。自己責任論者は無自覚にこれを後押ししている。