国民の無知を利用か
なんでもかんでも増税
我が国はあまりにも応能負担の原則を軽視しすぎではないだろうか。或いは、国民の無知を良いことに、法案を通し強制していると言うべきか。国民は権力には逆らえず、最初から諦めにも似た感情があるのではないか。その他で言えば、国民はナントカ改革という「改革」の中身を知らず、自明に良いものと何となく思っているフシがある。このような政治に対する消極的な姿勢は、権力を持つ者にとっては望ましいものとなり、国家が次第に死んでゆく。西洋の自死に等しい。
さて、憲法第三十条は多くが知るところだろう。次の通り。
第三十条
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
国民に税金を納めることを法律で定めているが、第八十四条を見てみよう。
第八十四条
あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
第三十条は宣言的及び意義を確認するもので、第八十四条は租税の法律を明らかにしたものだと言える。これはセットで見るべきものだ。このことからも租税の負担や変更には国民の承認が必要となる。国民の承認とは国民を代表とする機関が国会で承認することを言う。間違ってもらっては困るのは、代表者は憲法第二十五条を加味した上で承認、或いは反対しているかというところ。次の通り。
第二十五条
一 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
二 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
税金における法律で大事なのは、ただ単に税金を徴収するために制度を作って良いとはならないところ。口酸っぱく述べてきたが、人間は十人十色。能力には差があり、環境次第では同じ能力を有していても違う結果が出てしまう。そのため応能負担は人間社会や人間そのものに整合する。したがって、これを加味しない増税は弱者にとって非常に厳しいものになる。この反対で税負担が可能な富裕層への減税は公平さを欠く。我が国の実状はこの通りなのだから驚くべきことだ。
我が国は資本主義体制をとっているが、財産権を保障することで経済活動の自由を保障しているそれには法的な安定性や予測可能性を確保しておくことが肝要になるが、ここを素通りしてしまい税制を変更してしまうとどうなるか。途端に梯子を外されて詰んでしまう人が出て来る。そうして自殺する者や弱者となり追い込まれてしまう人を出すのだ。エドマンド・バーク曰く、
課税というのは、容易な仕事である。どんな立案者でもあらたな負担を企画できるし、どんな不器用者でも古いものに付け足すことが可能だ。
人間という複雑で不確実に満ちた存在、その社会で税制は繊細でなければならない。応能負担はこれであり、法律で担保されていなければならないのだ。我が国は災害も多く不確実性が高い。雑な政治では致命傷だ。