経済同好会新聞 第490号 「矛盾する日本の税制」
矛盾する日本の税制
租税で淘汰される国民?
当新聞第475号では応能負担の原則について書いた。同時に応益負担の欠点も述べているが、この応益負担の観点から課税するやり方は危険だ。消費税や均等で割って一人あたりいくらと課税する行為は、公の仕事として憲法第二十五条に反してはいまいか。政府や地方公共団体は国民を守ることも含め、最低限の生活費を保障することは厳守なされなければならない。つまり、この最低限の生活費に課税してはならないということ。これを可能にするのが応益負担の考え方であり、故に危険なのだ。これを許してしまうと、権力は考えなしに無条件に課税する愚かなことをやり出す。政府という権力と経済的な権力(企業の寡占化)とが結びつくことは必至であり、課税の仕方を間違えると亡国になりかねない。実際に我が国は経済団体や資本家に忖度する政府によって、税制が歪められている。度重なる増税や増える社会保障費、コロナ禍でありながら「過去最高益」を出す企業が出たことからも、それが証明されたようなものだ。
応益負担の世論が醸成されると、応能負担が蔑にされてしまう。そうなれば自己責任の世界になり、弱者は淘汰されることになる。財政健全化は信仰に似たものがあるが、応益負担も同様だ。低所得層から高所得層に一律で課税する税制になれば、低所得層の税負担を重くなり高所得層の税負担は軽くなる。これは公平の破壊でしかなく、応益負担を唱えるものがいれば信仰としか形容しようがない。なぜ、応能負担を考えないのか問わなければ、国力の著しい低下を招く。金の亡者が好き勝手やる世界にしかならず、モラルも秩序もへったくれもなくなるだろう。
頭が悪くなる?
史記に「利は智をして昏(くら)からしむ」と書いている。人間は利益ばかり追求していると、頭が悪くなるというのである。ものごとの理(ことわり)がわからなくなって、思いがけない恨みを招いたりする。論語に「利をもって行えば怨(うら)み多し」と出ているが、経済というものは本来、矛盾衝突を内包するから、利害による恨みが出やすい。
こう述べたのは安岡正篤だが、納税額の多さで人間性をはかる者が出るのも、論語や歴史から学ばない教養のなさを自白するようなもの。稼ぐ能力と人間性は一致しないのは、我が国を見ていれば嫌ほど理解できる。
応益負担で考える者はまさにこれであり、社会全体を見渡して考えてこなかった証左でもある。驚くべき矛盾は、財政健全化だと言いながら応益負担を容認するところ。先ほども述べたが、応益負担による一律課税は高所得者の負担を軽減するもの。これを覆い隠すために消費税は薄く広く取ると言い訳するのだ。まさに富裕層の税負担を軽減するためであることが透けて見えているではないか。明らかに低所得層から中間層に税負担を押し付け、高所得層に所得移転する行為なのだ。公平のつもりが公平を破壊する大矛盾の渦中にいると認識しなければ、淘汰される者が増えていき、没落は止められなくなるだろう。
我が国は管理通貨制度であるが、これが金本位制であろうと今のやり方では強制的徴税であり、自然税収は見込めない。つまり、歪んだ税制や歪んだ構造改革によって経済成長できなくなっているのだ。