「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第500号 「言葉を利用する者達」

言葉を利用する者達

言葉を利用する者達

言葉を利用する者達

何度でも指摘せねばならぬ

 言葉を都合良く使う者が一定数いる。言葉自体に罪はないが、この言葉を自己の欲求を満たすために扱う者達がいる。例えば、「改革」という言葉。竹中平蔵を代表とする改革者は、この言葉を用いて政策を進めようとする。その政策とは民営化である。建前上では公務員を批判し既得権益が!と叩くが、本音はこの権益を民営化することで特定企業の利益に付け替えるのだ。これを表ではナントカ改革と言いながら、裏では利益誘導をする次第。彼らが叩く既得権益とは、国民全体が享受するサービスだ。これを岩盤規制が!と言い、国民を煽って民営化にこぎつける。都構想も同様の流れだ。このような大衆を扇動するために「改革」だとか「身を切る改革」等と言葉を扱う者がいることを知っておけば騙されずに済む。
 当新聞で指摘し続けてきた「多様性」という言葉もそうだ。当ブログの検索窓で検索してもらえれば分かるが、多様性という言葉を利用して強引に政策を推し進めようとする輩や、持論を押し付けようとする輩もいる。これは多様性をうたい政策を推し進めることで採用されればどうなるか。元々あった多様性が排他され淘汰される恐れが出て来る。このような本末転倒では社会に混乱をもたらす。彼らは相手をひれ伏せるためにこの言葉を用いるのだ。意図的にやっている者もいれば、無意識にやっている者もいるだろう。多様性の中身を問うてみよ。上手く説明できない方便として多様性という言葉で誤魔化していることが分かるだろう。


言葉は盲点化に

 言葉は人間が扱うことで良い事にも悪い事にもなる悪い事とは前述した通り。泥棒が「多様性の世界だ!盗みも多様性の一つだ!」と言うと、道徳的に有り得ないため「うるせーばか」となるだろう。ところが、肩書がついた者が改革だとか多様性等言うと鵜呑みにする人達。なぜ鵜呑みにするのか。固定観念だ。この言葉にポジティブな意味づけをしているからに他ならず、精査するだとか熟慮することをしない。いわゆる思考停止をさせてしまう言葉でもあるのだ。
 他には持論を強化するため、相手より優位に立つために言葉を扱う者がいる。要するに虎の威を借る狐。相手が思考停止することを見込んでやるのだ。例えば、
 「私の前世は仏陀」と言う事によって、相手に畏敬の念を抱かせる。要するに権威で従わせるやり口だ。百歩譲って仏陀だっとして、今世のあなたはどうですか?と問うてみると良い。仏陀がわざわざ私は仏陀ですと言わないだろう。  このような詐欺的な言葉を使って相手を言いくるめたり、優位に立とうとする者は警戒すべき対象になる。政治家レベルで既にいるではないか。学者にもいるしインフルエンサーと呼ばれる者にもいる。真っ当な人は至極真っ当だが、見分け方は質問して「言い訳に整合性が取れていない」者は偽物だ。政治レベルで言い訳に終始する者もいるが同レベルだ。人間として信用できない。
 党議拘束も都合の良い言葉だ。本当は反対したかったけど仕方なかったとする政治家は一切信用してはならないし、落選対象だ。加担者である事実は消えない。言い訳としても低劣であり、卑怯者という汚名を着せられても文句は言えまい。一度でも党議拘束をやめよと党本部や国民に問いかけたことはあるのか。底が透けて見えている。