「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第298号 「なかったことにしよう」

なかったことにしよう

なかったことにしよう

なかったことにしよう

奇妙な現実逃避とリセット癖

 スポーツでミスをした際、「ドンマイ」とかけ声をかけ、仲間に気持を切り替えさせる。このような前向きな言葉や姿勢は歓迎するものであるが、国家を左右することに対してはどうだろうか。今度の総裁選で新しい首相が誕生した暁には、気分を一新しようとする奇妙なものを垣間見るのだ。今はコロナ禍の真っただ中だ。何かにつけて気分をリセットして改革だ等とする向きは、明らかに臭いものには蓋をする不気味さがつきまとうのである。確かに、これまでの困苦や閉塞感は多くの人が経験しており、息苦しさから脱却したい気持はとうに芽生えているであろう。オリンピックもパラリンピックもやった。そこへ来て今度の総裁選である。
 自公明政権は適切な経済対策やコロナ対策をせず、国民が命を落としていることに対して総括はするのだろうか。消費税率を5%に引き上げた故橋本龍太郎元首相は、死ぬまで緊縮財政を悔いていたという。日本の異常さは、問題が分かりきっていても推し進めてしまうところであり、その責任をとらず気持を切り替えてなかったことにしてしまう風潮。これでは犠牲になった人々は浮かばれず、犠牲はつきものであると居直ることが常態化していては、過去のことを蔑にして全く筋が通らない。
 第二次世界大戦後の我が国における総括も未だ終わっておらず、国家自体が地に足がついていない。冷戦終結後に至っても対米自立することもなく、自主防衛の議論も出来ないまま今に至る。根っ子でケジメがついていないため、どこか他人のふんどしで相撲を取っている状態は拭いきれないのだ。
 考えることを放棄した結果、ことあるごとに問題にぶつかってもなかったことにしてしまう癖がつき、気分を一新してしまおうと現実逃避してしまう。東日本大震災の復興は未完、それで今回のコロナ禍でのオリンピックだ。この統合失調症のような政治姿勢は、足元がふらふらしていることから目を逸らして来たツケである。どこかでこの流れは断ち切らねばならない。

 

経済もコロナも同じ挙動

 いわゆる国の借金はデマであるが、人々はひたすら国民が背負う借金であると信じきっている。それ故、政府の支出は将来世代のツケになることも同時に信じきっており、人の犠牲が出ていようと政府の予算削減にはどこか安心してしまうのだ。政治家は国民の感情を読み取り、今のまま良しとする。それでいくら人が犠牲になろうとも。
 経済的な犠牲、コロナによる犠牲、全ての根っこは共通しており、それは政府がお金をケチっているからである。後の祭り、余計にお金がかかるのだ。これはまるで、夏休みの宿題を最後の2、3日でやるくらいに追い込むほどの力を要するようなもの。やることをやっておけば楽なものを、遊ぶことに夢中で後で焦って痛い目に遭う。否、我が国の場合、宿題すら済ませておらず、問題は積み重なっていく一方である。むしろ、構造改革で問題をこしらえていると言うべきか。
 ワーキングプアの問題や災害対策のためにお金を出せと言ってもやらず、台湾やニュージーランド同様にPCR検査を用いた疫病対策の基本を実行しろと言ってもやらない。後の祭り、困窮者、感染者を増やしてしまった。それを誰かのせいにして利権と保身を抱え現実逃避するのである。

 

 



経済同好会新聞 第297号 「余白の美」

「余白の美」

「余白の美」

「余白の美」

無駄の削減で国民を追い詰める

 下の文章の配置は、Aは違和感がなく、Bは窮屈で違和感がある。

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 Aは上下左右に余白が設けられており、文字と文字の間、行の間隔も余白があり読みやすい。我々が日頃から目にする文章等は、このように余白が設けられているため、なんの違和感もなく当然のように読めるようになっている。書籍全般、漫画、雑誌や教科書に至るまで、全てこの余白は意識されて作られている。読み手にとって違和感がないように設計されているのだ。 一方でBはAとは真逆だ。読もうと思えば読めるが、これが数万文字もあるとしたらどうだろうか。読み手は心理的に疲れてしまう。途中で嫌になるのだ。
 さて、Aのような余白は余裕に例えることが出来る。人の精神的余裕や構造物の余裕。仕事における余裕や金銭的余裕。人が意識せずともストレスが起きない、これが余白の美であり、余裕の美である。

 

余白を奪う人達

 上で示したBのように余白が削られる行為の典型として、身を切る改革や痛みの分かち合いがある。これらは予算削減の方便として利用される言葉であり、美徳と思わせておきながら、実は利権への誘導なのだ。 余白(余裕)を設けることは力が発揮できる状態であり、きちきちで余裕がなければ力は発揮できない。良い仕事は余白があってこそであり、継続性の維持につながる。イノベーションが起きやすくなるのは、余裕があるからこそだ。
 日本のおかれる状況は、長年の緊縮財政(消極的財政)や構造改革で余白を奪われた人達がたくさん出ており、それが所得になって表れている。こども・大人食堂の存在は、労働者の低賃金化によるものだ。コスト削減として、労働者の所得が削らている故である。
 予算削減はそれだけで国民の誰かが必ず犠牲になる。だからこそ、身を切る改革等と言い、建前上の言葉で誤魔化しているのだ。
 このコロナ禍で明るみになったことは、保健所や病院の余裕のなさ。以前から指摘はされていたが、実際に起きてみると医療崩壊で悲劇と困窮が渦巻く。余白(余裕)は確保するものであり、先手先手で対応と対処するのが政治の役目。それが分からぬ政治家達が、余白を奪うことを是とし、国民を追い詰めている。消費税が典型だ。 適切な税制は実体のある経済の余白を作り、累進性のない消費税は経済を窮屈なものにする。無論、中抜きは余白を削る行為だ。
 上にあるAのような余白を土台にしてものを考えなければ、何をやっても上手く行かない。この数十年の日本はBを余儀なくされ、Aに戻せと言 って来たのが我々経世済民を志す者達である。Aのような配置、それを維持することが政治の仕事。つまり、Aを保守し将来につなげていくことが肝要なのである。

 

 

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経済同好会新聞 第296号 「財政破綻の定義示さず」

財政破綻の定義示さず

財政破綻の定義示さず

財政破綻の定義示さず

非科学的な経済界隈の言動

 壊れたラジオのように出て来ることとして挙げられる「国の借金」、「将来世代のツケ」や「財政破綻」等。これらを用いるメディアや一部影響力のある経済学者は、国民を思考停止させている。ところが、彼らは一体どうなれば財政破綻するのかは絶対に言わない。否、言えないのだ。彼らは議論のテーブルに着くことなく、国民一人当たりいくらの借金!と毎年のようにただただ垂れ流すのみ。
 我が国は管理通貨制であり、英・米と同様に通貨発行権を有しているため、財政破綻債務不履行)は起きない。貨幣(お金)の発行者が債務不履行に陥ることは有り得ず、唯一、破綻する定義を想定するとすれば、それは戦争等で「供給力を破壊されることで起きる」過剰インフレだ。メディアの垂れ流す、いわゆる国の借金が積み重なることで財政破綻は起きないのである。そもそも、何度も言い続けているが、国の借金の正体とは国民が背負う借金ではなく、政府の負債である。
 はたまた、政府の負債が一定線を超えた時、円の信認を失いハイパーインフレになるという言説がある。政府の負債とは「貨幣の発行残高」に過ぎず、先述した戦争等が起きることがない限りハイパーインフレはは起きえない。つまり、それらはデマ屋の「そう思いたい願望」に過ぎないのだ。伝説のトレーダーなるデマ屋が、管理通貨制を全く理解していないことが鮮明になっただけである。例えるなら、巨大な隕石が落下して日本が沈没する!と言うくらいの馬鹿げた煽りで大衆扇動を行っているのだ。厚顔無恥にも、未だ言い続けている。

 

つくづく矛盾する言説

 メディア等は放漫財政であると垂れ流すが、ではなぜ、貧困格差が開くかの説明が一切ない。放漫財政であれば、インフレになっていなければならないが、この数十年の日本は真逆のデフレと停滞を繰り返している。ここで放漫財政が前提であるならば、彼らは次の問いに答えられなければ無責任だ。


・なぜ良好なインフレになっていないのか
・なぜ貧困格差が年々拡大するのか
・なぜ地方が衰退しているのか
・なぜ科学は凋落していくのか
・なぜ円の信認が失われないのか


 彼らはこの「なぜ」の中身を詳らかにせずにいるのは、財務省ペーパーと御用経済学者を採用しているからに他ならず、自ら調べていないからである。これでジャーナリズムとは片腹痛いと言わざるを得ない。もし、調べても記事として出せないのであれば、各々のメディアが権力に忖度している証左である。権力の腐敗はメディアとは無関係ではない。
 我が国は言論の自由は保証されているが、メディアが権力によって伝える自由を一部でも制限されれば、それは権力によって都合の悪いことである。加えて、それが肝心要のことであればなおさら、国民や国家にとって不幸である。
 経済不況時に税収が上がる異常事態は、政府が仕事をしていないからに他ならず、メディア自体がこれを指摘できないこも相当に異常だ。税収増加は、国民や企業が更なる負担をしてきた表れであり、税収が増えたと喜んではいけないのだ。不況時は減税で負担を軽減、これは鉄則である。

 

 



経済同好会新聞 第295号 「原理原則より利権」

原理原則より利権

原理原則より利権

原理原則より利権

とどの詰まり、やらかしてしまった

 コロナ禍で開催されたオリンピック。バブル方式を実践すれば問題ないとしてきたオリンピック委員会。当然のことながら、感染は人の移動で起こるため、当初から絵に描いた餅だと指摘されていた。そもそも、世界は国境封鎖でコロナ流入を阻止すべく、水際対策を実施してきた。かのEU経済圏でさえそれをやったのだ。それだけ深刻に受け止めざるを得ないコロナを、日本は二重基準を設けオリンピックを強行開催してしまった。パラリンピックもその流れで開催中だ。
 我が国の異常さは、政治家が国民に自粛を求める一方で、自らは会食をしていたり、オリンピックの開催をしたりと示しがつかない。このような二重基準は人を惑わせるに十分である。先日開催されたライブイベントは、この1年と半年ほど補償なしに自粛してきた表れである。彼らとて生活があり、補償がなければ活動する他ない。日常的に出勤しているサラーリマンや経営者と何が違うというのだ。座して死ねと言うのではあるまい。
 政府が補償すれば、それと引き換えに自粛する人は大勢いるだろう。 国民は生活のために働いているため長い自粛は死活問題だ。ところが、政府は国民や企業には補償せず、パソナ電通やオリンピックにお金を投じた。貸付があるじゃないかと言う向きもあるが、半年たっても申請が下りない話が数多くある。これは正規公務員の数の少なさに加え、審査の厳しさが原因だ。
 更に、菅政権は竹中平蔵パソナ会長とD・アトキンソン氏の提言であるM&Aのために企業を救わない。案の定、リストラや派遣切りが出ており、満足に生活も食べることも出来ない人達を大勢出してしまった。
 自民党には財政政策で企業も国民も救えと何年も言い続けてきた安藤裕議員もおり、複数人で勉強会を開いてきた。しかし、党執行部は全く反応なし。それどころか、「これで持たない会社潰すから」と幹部が言ったという。自民党はもはや腐った政党であり、罰則として政権交代は問答無用で必須である。それだけのことをやらかしているのだ。

 

論理なき政治

 国民が財布のひもが緩む政策、疫病の感染を広めない行動を促す政策。これらを前提にものを考えるのは理の当然であり、北風のようにしばく一方では、ただの精神論と自己責任の丸投げだ。頭が精神論で凝り固まった人間は、自らはそれで上手くいっても、他者がそれで上手くいくとは限らないことを心底から理解していない。つまり、努力不足と短絡的に判定し、レッテルを貼って見下すのだ。非論理的である。が、これを政府がやっているのである。どういうことか。自民党あいさわ議員は企業を指して、ゾンビ企業は退場と言っていたではないか。政策の誤りから経済を数十年単位で停滞させておきながら、どの口が言うのだ。
 GoToキャンペーンやオリンピックを開催しておきながら、菅政権ブレーンである竹中平蔵パソナ会長は「医療ムラ」等とレッテル貼り。人の移動を促しておいて、医療のせいにするのだ。なぜこのような理不尽がまかり通るのかと言えば、ショック状態の今、かねてより計画していたM&Aの推進や国民皆保険を廃止するためだ。高い保険料を払わなければ医療を受けられない、保険利権をやりたいのだ。竹中が世論を煽った時は、計画を遂行したい時である。

 

 

維新の素顔

 



 

経済同好会新聞 第294号 「不況の国、日本」

「不況の国、日本」

「不況の国、日本」

「不況の国、日本」

労働者の犠牲で潤う株主

 数十年単位でデフレと停滞を繰り返す我が国。景観は美しいが経済は不況だ。蓋を開けば緊縮財政、構造改革、貿易黒字化政策で内需を破壊し、自公明政権は資本家のために構造を変えていた。その典型が世界で起きた法人税率の引き下げと消費増税であり、各国で資本家優遇がなされてきたことが実情だ。平たく言えばグローバル化である。
 我が国の数十年単位の経済停滞は明らかに不自然であることは、当新聞で何度か指摘してきたことだ。労働者不遇と引き換えに、上場企業が潤うと同時に資本家である株主が潤う。経済停滞は消費税によって意図的に行われ、国民への説得には「社会保障費の確保」である。その税金の多くが借款に使われており、嘘であることが発覚するも、国民には浸透せず。自公明はこれ幸いと方針を転換せず、経団連や資本家優遇を変えようとしない。その理由は内需が潤えば貿易は赤字化するためである。なぜか。。原価が上がるからだ。法人税率引き下げは人件費を抑えるためであり、移民政策も同様である。原価を抑えるために経済停滞は貿易企業にとって好都合なのだ。株主への配当金が右肩上がりで飛躍的に増えた理由がこれである。
 内需が潤うと貿易競争力が落ちることを理解している株主は、配当金欲しさのため、日本経済は停滞させておくという具合。この数十年の不自然な停滞は、意図的であったのだ。

 

貿易黒字より目指すべきこと

 インフレを目指す理由は国民全体を豊かにするためであるが、貿易黒字のインフレは上述したように国民を潤わせない。国民全体を潤わせる財政政策は、そのまま内需を潤す効果が大きい。例えば、消費税廃止、乗数効果の高い公共事業及び、それに伴った公務員の増加、科学研究への投資も雇用が生まれる。また、公務員や労働者の非正規から正規化への転換もそうだ。
 内需が潤えば、貿易企業は国内での販売に力を入れるべきだ。コロナ禍でグローバル化がいかに脆弱であったか、守るべきは国内の需要なのではないのか。
 経済成長することで外国人投資家が投資し、副作用として円高になるという、マンデル・フレミング理論もデフレ化を招いている。この理論は経済学者が資本家に忖度したとしか思えず、日本の停滞に一役買っている。これは財政政策を否定するための理論としか言いようがなく、経団連や経済御用学者の消費増税の提言と併せて考えれば、まことに都合の良い理論である。まだ稼ぎ足らないのか、そこまでして見てくれの純利益と配当金を上げてまで、労働者をこき使うのか。彼らはまごうことなき金の亡者である。
 大企業の貿易という利益を追求した結果、労働者が低賃金化したこと、それを後押ししてきた歴代の自民党政治家は猛省せよ。一握りの利益最大化より、国民全体を豊かにせよ。

 

恐ろしい無意識

 人は相手が気に入らなくなれば、途端に人を人と見做さなくなる。コンビニやスーパーの店員がまるで人ではなく、ロボットか小間使いのように思えてくるのも、人とは認識しているが、どこか最初からそこにあった空気のように見えているのではないか。弱者救済にしろコロナ対応にしろ、犠牲者が出て当たり前に思う一般人がいれば、これなのかもしれない。

 


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経済同好会新聞 第293号 「報われない努力」

報われない努力

報われない努力

報われない努力

為政者の偽善は苛政に

 当たり前のように目の前にある道路、受けられる医療。当たり前になり過ぎるとどうなるか。感謝を忘れるのである。目に見える物やサービスは多くの人が携わっており、それら人がいるからこそ生活が成り立っている。この当たり前と思えることは「土台」であり、この土台はなぜ出来たかを認識しなければ、構造改革だ!身を切る改革だ!民営化だ!と大衆に「刺激」を与える扇動者に魅力を感じ騙されるのだ。人は当たり前過ぎるとそれが盲点化し、有難みがなくなる。そこに付け込まれるのだ。
 人の欲求というものは、慣れてつまらなくなってくると刺激を欲するようになる。また、近い将来に窮地に立たされるだろうと認識した際には、何かに縋ろうとする。詐欺師はここに付け込んでくるのだ。
 構造改革も身を切る改革も受け取る側にとっては刺激的であり、辛い状況にある人々は世の中を良い風に変えてもらえそうだとそれに縋ろうとする。このことからも、教育がいかに重要か理解できるだろう。
 努力が報われないのは、土台である当たり前にある物に感謝せず、その重要性を軽視しているからだ。きちんと土台が何であるかを認識していれば、努力が報われる社会に自然となっていくのである。長年の日本は、その土台の破壊者が政治を司っているため、頑張っても頑張っても報われない。むしろ悪化していく。よもや、政策の誤りとは露知らず。


経済はモラルサイエンスである

 知の巨人であるジョン・メイナード・ケインズはこのように述べている。

 

 経済学は論理学の一分野であり、思考の一方法です経済学は本質的にモラル・サイエンスであって自然科学ではありません。

 

 自由過ぎれば無法化し馬鹿が量産され、道徳が行き過ぎれば四角四面で不寛容な馬鹿が量産される。どちらも偏り過ぎる故の末路である。市場原理主義は前者計画経済は後者。

 「ええ塩梅」にするためには、市場に政府が補助する形で介入することや、規制の厳格化や強化で偏りから守る。また、適切な税制は貧困格差を是正し、庶民の生活をスムーズにする。
 身を切る改革だとか、痛みの分かち合いは道徳だとする愚か者が存在するが、困窮している庶民に痛みを分かち合え等と、道徳的要素は一切ない。むしろ、人を追い詰める行為である。
 現在の日本は市場原理主義により非常に偏っており、その旗振りは資本家である。竹中平蔵パソナ会長や維新の会はその代弁者であったり実行者だ。土台である水道を民営化する等、この表れである。災害経験者はこのように述べる。


 「蛇口をひねれば水が出る、これがどれほどありがたいことか」


 土台というのは、当たり前にあるものを将来に渡って永続的に必要とされるものである。水道等が公で管理している意味は、供給、価格の安定とリスクを排除するためでもあるのだ。市場原理主義はこれらを破壊するため、規制が必要である。
 まとめるとこうだ。道徳の上で自由が最大限になり、自由の上で道徳が最大限に生かされる。政府の介入は道徳であり、その上で市場は自由に潤う。株主優遇や節操のない民営化は、道徳の破壊であり、緊縮財政は行き過ぎた道徳であり自由の破壊である。

 

 



 

経済同好会新聞 第292号 「ケインズ政策定着せず」

ケインズ政策定着せず

ケインズ政策定着せず

ケインズ政策定着せず

日本、管理通貨制も宝の持ち腐れ

 経済成長を遂げてきた昔の日本。まるで、歴史に埋没する勢いであるが、それほど古くはない。 1950年代から1973年のオイルショック前までの我が国は、ケインズ政策を採用していたため経済成長していた。これは我が国のみならず、米国等に然り。
 民間市場に政府が介入する形になるケインズ政策は、貧困格差拡大を阻止することや、インフレとデフレを制御する役割を税制によって担うことはあまり知られていない。ところが、オイルショックケインズ経済学を排他的にしてしまった。なぜか。この時分にスタグフレーション(不況と物価の上昇)が起きたためだが、政府の介入に快く思わない資本家の圧力により、政策当事者達は見当違いな政策に手をつけてしまった。例えるなら、火は水をかけて消すところを油の入った水をかけて延焼を長引かせるようなことをやらかしたのだ。そのため、ケインズ批判の下、新古典派経済学によりケインズ経済学が否定されていったのである。批判すべきは政策当局であり、ケインズ批判は見当違いである。つまり、新古典派への誘導があったと見るべきなのだ。
 ケインズは貧困の救済を富裕層への課税で分配していては、富裕層が政府に圧力をかけることも、それで手のひらを返す政府も見越し、管理通貨制を考えたのである。税に頼らず政府が直接支出するためだ。ケインズは国民の平等を掲げていたことも特筆すべきことだろう。加えて、新古典派はその平等を自らの学問のために奪ったことも付け加えておかねばならない。
 貧困・格差拡大が止まらず、株主が肥え、労働者が貧困化している現状を見れば、よく理解できるというものである。

 

やることが真逆

 経済が低迷するとやることの基本は、減税や免税である(デフレ対策)。だが、何かと理由にかこつけて、消費増税をしてきたのが我が国の異常さだ(デフレ化政策)。消費税のみならず、固定資産にかける税にしろそうだ。前述したスタグフレーションにしろ、物価は上がったが経済は不況である。つまり、これはデフレ現象であると見るべきであり、やることはインフレ政策だ。しかし、オイルショック時にはデフレ政策をしてしまったのだ。
 ケインズ政策にのっとっていれば、間違いなくやることはデフレ対策であり、それをしなかったのは資本家のインフレの課税から逃れたい圧力があったからと見做さなければあまりにも不自然だ。我が国の数十年もの経済停滞も当然のことながら不自然であり、経団連と一部主流派経済学者が増税を推進していることから、資本家の意向が働いてることは自明なのである。もし、そうでないのであれば、歴代の政権や政策当局はただの無能であり、早々に中身を入れ替えねばならない。
 資本家にとってウハウハの時代、労働者にとって暗黒の時代が日本の姿なのだ。間違っても日本は管理通貨制であって、そんな簡単に困窮者が出るような国ではない。それが出続けている。
 通貨発行権のある我が国でここまで多分野で衰退が起きている現実は、政策が誤っているからに他ならない。経済政策もダメ、国防もダメ、感染対策もダメとなれば、恣意的でなければここまで酷くはならないだろう。
 ケインズが考えた管理通貨制を生かさず、むしろ古典派が邪魔している。