「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第377号 「従順になり過ぎた国民」

従順になり過ぎた国民

従順になり過ぎた国民

従順になり過ぎた国民

財政赤字、十把一絡げ

 我が国には非常に多くの諺(ことわざ)がある。教訓としての諺も多く存在し、我々の至らぬ姿勢を正してくれるものだ。副題の「十把一絡げ」も諺だが、意味は【いろいろな種類のものを、区別なしにひとまとめにして扱うこと。また、一つ一つ取り上げるほどの価値がないものとしてひとまとめに扱うこと。】
 十把一絡げとして扱われるものに、財政赤字がある。国の借金が積み上がっている!というセンセーショナルとも似た言葉で内容を見ず、反射的に恐れてしまう風潮のある我が国にとって、十把一絡げという諺は非常に鋭く指摘するものだ。
 例えば、政府が各種インフラ、教育や科学に支出したとして、これは無駄なのか?教育や科学も中長期に「蓄積」されることを考えれば、短期的には実らなくとも中長期では結実する。我々がこうやって生活していけるのも、それら結実した結果だ。財政赤字の中身は、このように短期では成果が出なくとも、中長期で成果が出るものに支出することは、非常に重要な役割を果たす。国の借金を返すためにあれこれ削減しろ!民営化だ!とやってきたことで、我が国は衰退していったのだ。そう、財政赤字の中身を見ず、物事を十把一絡げにした結果である。これこそ、思考停止の産物であり、考えることをやめ権威(メディアや名のある者等)に傾倒した結果、「従順な国民」が出来上がっている。見よ!大阪府吉村知事がテレビ出演でパフォーマンスする様を。衆愚政治の極致である。ミーハーな人間を虜にし、その実、府民は身を切られているのだ。カジノで維新の本質が如実に表れており、ギャンブルありきなところもあまりにも不自然ではないか。
 見るべきは支出の中身であり、何に使われているか、これを将来世代に受け渡しても恥ずることのない、安定的な基盤を形成されていくものなのかをだ。

 

見失う自己と国家

 財政赤字を問題にするのであれば、中抜きに支出することはいの一番に問題視すべきだろう。国家を永続的に存続させていくための視点が欠落した政治では、 簡単に短期成果だ!金はケチるがイノベーションだ!民営化だ!等と、捕らぬ狸の皮算用ばかりで自滅するのみだ。我が国はいつから実現しない願望に妄想を抱くようになったのか。
 国民がいないと国家は成り立たない。その国民が貧困化していき、短期成果で蓄積することを蔑にしていることからも、今さえ良ければ後は知らんという人間が、経済界や政治、一般国民にも見て取れる。その証左に、将来世代のことも考えずに無駄の削減だ!増税が必要だ!とやっているではないか。国民に負担を押し付け、それで技術も生命も淘汰していては世話ない。儲かったのは一部投資家のみであることから、自民党は誰に忖度してきたかは明らかである。戦争せずとも人が死に、衰退する恥ずかしい国家にしてきたのだ。
 これらは経済学以前の話であって、自国民を守ろうとする認識のない者は、同胞が野垂れ死にすることを容認しているも同然である。無自覚にだ。現実を見ようとせず、ひたすら誰かに靡いて溜飲を下げることが関の山。後は知らん顔である。
 足元がふらふらした人間に自己はなく、このような国民が多くなれば国家は失ったも同然だ。権力者がそれら国民を奴隷のごとく支配し、地獄界の餓鬼のように欲望を満たし続けるのである。

 

 

ツェリ子様
経費と利益は相反する


 

 

経済同好会新聞 第376号 「日本経済の凹凸」

日本経済の凹凸

日本経済の凹凸

日本経済の凹凸

昭和と平成の言葉

 やぁ、みんな!緊縮してるかい!そうだよね、給料上がらないし物価上がってさんざんだから緊縮してるよね!それでさ、昭和の好景気を経験してきた人達が政治家にいるわけじゃない?この経験をどの世代にも味あわせてあげたいって思わないもんかね?だって、アベックにマブタチにナウいって、右肩上がりで調子の良さが出てる時代感あるし、郵便や銀行に貯金したら利子が結構ついたそうじゃないか!羨ましいね!今の時代なんか既にバタンキューになる人多いんじゃない?そりゃ、あたり前田のクラッカーってなもんさ!シェー!とんでもはっぷん!え?わけわかめだって?全部昭和のギャグだよ!うちらの国が経済成長してた時のを集めたのさ。インド人もびっくりだね!そろそろ本題にレッツらゴー!(ここまで全部昭和)

 

アウトオブ眼中な貧困対策

 シングルマザーのヤンママ、事情があるにしろかわいそうだね。働きながら一人で子育ても大変だけど、低賃金だし精神的に結構くるのさ。人ってその当事者になってみないと分からないことなんかたくさんあって、いざ自分がその身になると大変だっちゅーの!ってなると思うんだよ。子供には良い思いをさせたいし、シングルマザーでもお金に困らない社会になったらチ ョベリグだよね!というかマスコミが「国の借金!」 って大げさに言うもんだから、はじめて知る人はさ、じぇじぇじぇ!ってなるし、その衝撃で国の借金は国民が背負うものだと本気で鵜呑みにしちゃうもんね。半ば洗脳されたも同然で、財務官僚にとってそれら庶民はカモネギみたいなもんで「ゲッツ!」ってなるよ!なんでかって?多くの国民が国の借金を信じてさ、政府の支出を削減させることが彼らの目的だからだよ。酷いしチョベリバ!貧困層増えるし、対策する気ないの丸わかりだね。こんなのダメよ~ダメダメ。(ここまで全部平成)

 

大事なものとは

 ねぇ、うちらの国って管理通貨制度だって何百万回も言ってきたけど、税金をかき集めて財源に充ててるわけじゃないんだ。政府は昔みたいに税金に頼らず、お金を発行する能力が備わ っているって言えば分かりやすいかな?政府がお金を発行して、うちら国民がそのお金を利用しているってわけさ。じゃ、税金って何で徴収されるのかって言うと、格差を是正するのと、経済全体のバランスを調整するためだからだよ!
 国民の衣食住をしっかりさせるためには、まずは人がいないと話にならないよね。それで人々が衣食住に関わる知見とかノウハウとかなんじゃかんじゃないと、成り立たないじゃん?服を作る人や野菜を作る人や家を建てる人達って、最初からノウハウとかあったわけじゃないからさ、継承されてきて今があるわけでしょ?つまり、これ供給力の話なんだけど、この供給力が衰えてきていてやばいのさ。
 ノウハウを継承する行為って、個人個人にそれが「蓄積」されていくものだけど、これを横着していくのが非正規雇用なんだ。3年ほどで移動していくからね。民間企業にしても公務員にしてもこれが起きていて、このような構造にしたのは竹中平蔵小泉政権にいた時にやったんだ。数十年前のことだよ?大事なこと分かってないのよ…

 

 

 



経済同好会新聞 第375号 「本当に恐れるべきこと」

本当に恐れるべきこと

本当に恐れるべきこと

本当に恐れるべきこと

繰り返される本末転倒

 毎年のように国の借金、放漫財政という文字は大手新聞社の見出しに踊るが、政府を利用して中抜きしているパソナ電通への批判は極めて少ない。これが二重基準であるのは、政府支出が中抜きに利用されており、これが原因で累積赤字(国の借金)として積み上がっているとは決して言わないからだ。これと同様に、無駄の削減をうたう際にも、中抜きについて触れないことも二重基準であろう。
 自国民が苦しんでいる中、外国へは支援する。優先順位はどうなっているのだ。これではまるで、自分の家族を蔑にしながら、外面だけ良い顔をするDVの典型ではないか。
 さて、気付いた人もいるであろうが、国の借金がー!と言いながら外国を支援する余力があるところ。我が国は管理通貨制度を採用しているため、国の借金の規模が問題にならないことはこれまで述べてきた通り。そうであるにも関わらず、国内に投資することを怠っている日本政府は、外国に支援する動きは早いが国内投資には後手後手の後手。むしろ、投資を削ってきたのである。
 ガソリンが値上がりしてもご覧のように動かない。4月にはトリガー条項を発動する動きがあるというが、既に後手後手の上だ。
 このコロナ禍で各種税を減税した国々は多いが、我が国だけは頑としてしない。とにかく減税することを嫌う異常性の高い我が国は、重症と見做しても良いだろう。驚くべきことに、この数十年の我が国の経済は、衰退と停滞を繰り返してきたが、安倍政権下では二度も消費税を引き上げたのだ。


恐るべきこと

 政治の無能さは国を傾かせるために恐れるべきことだが、我が国の病はお金(貨幣)について誤った認識がなされているところ。前述しているが、国の借金や放漫財政という言葉が毎年のように出てくるように、典型的な錯誤によるものなのだ。
 管理通貨制度という言葉が出て来ないところも、前大蔵省や財務省にとって都合が悪いのだろう。更に、政府支出が先にあり、徴税は後に行われている事実も隠されている。建前上、税金が財源とされているが、では、その税金を使ってパソナ電通に中抜きさせたことは許されるのであろうか。国民も政治家も烈火のごとく怒りをあらわにする場面のはずだ。この非道徳的なものに対して排除せず、許し続けてきたのは他ならぬ自公明に投票してきた有権者だ。政権与党の議員にしろ、身体を張って止めることをしないのは、政権内で権力を握る者の力が強いことを意味する。これは恐ろしいことだ。
 自国民が苦しんでいようと、自己責任で片付ける人々も恐ろしい。無自覚な悪人である。ガンジー曰く、

 

 万人の福利を願うことが自らの福利につながる。自分や自分の所属する小社会のみの福利を願う人は利己的であって、そうすることは、けっしてその人のためにはならない。

 

 国の借金の錯誤にしてもそうだ。この錯誤が国民を従順にさせており、多少の文句はあっても我慢し、自死を選ぶ人もいる。管理通貨制度である我が国にとって、財政赤字は問題の本質ではないのだ。税金は経済や格差の調整弁であり、弱っている人から取る必要はない。国の借金を恐れるのではなく、我々の生活が成り立たなくなり、国力が低下することを恐れよ。

 

 



経済同好会新聞 第374号 「懲りない言葉の誤魔化し」

懲りない言葉の誤魔化し

懲りない言葉の誤魔化し

懲りない言葉の誤魔化し

詭弁の横行か?騙される人々

 当新聞では累進課税について幾度も触れてきたが、この重要性を認識すべき理由を再度取り上げてみよう。消費税は累進性のない逆累進性と呼ばれており、低所得者に負担の割合が高くなる税金だ。本来は高所得者になればなるほど負担が高くなる累進課税が必要なのであり、これは所得再分配と呼ばれ、修正資本主義の思想となる。
 修正前の資本主義は、人間の欲望を満たす強い者が支配してしまう富の独占化という欠陥があるため、我が国では修正資本主義の道を歩んでいたのだ。ところが、消費税が導入された時点で累進性の税制が破壊される一歩となり、法人税所得税を富裕層優遇のために減税するという更なる税制の破壊に踏み込んでしまった。格差拡大が止まらない構造をわざわざ構築したのである。
 自民党の政治家が「国民に寄り添う」と言うが、これら政策を進めてきておいてよくもぬけぬけと白々しい。弱者の負担を重くしておいて、国民に寄り添うとは相反するのだから白々しいという感想と共に怒りさえわく。更に、格差拡大に輪をかけているのは派遣企業から派遣される非正規公務員や社員だ。ワーキンブプアを生みだしているこの実態に声もあげず、国民に寄り添うとは偽善者にもほどがある。言葉で誤魔化しているだけなのだ。

 

ふるさと納税

 地方創生と言いながら、嘉悦大学教授の高橋洋一氏が考案した「ふるさと納税」も誤魔化しだ。これは地方交付税交付金を削減するための方便であり、後はみんなでよろしく自己責任でやってくれというものでしかない。政府から直接地方に分配されるであろう交付金は的確に地方を創生させるが、ふるさと納税はまるで公的部門を民営化するくらいの詐欺的欺瞞である。政府が地方に支出することを否定するものでしかなく、非常に危険極まりない。つまり、地方を再生するだとか、創生する気は元よりないのである。誰かが儲かるためや得をする政策を考案するのが政策工房界隈の人間たちであり、言葉で誤魔化してくることを非常に得意とする。

 

詐欺的エリート

 これまでの話と重複するが、消費税は公平な税だと嘘をつき、社会保障のために使用すると誤魔化し、その多くは借款に充てていた。法人税減税は企業が海外に逃げると脅し、その実は多国籍企業が日本で儲かりやすくするためのものであった。ふるさと納税と言いテレビで良いことのように宣伝しておきながら、地方交付税交付金の削減が目的である等、やりたい放題である。詐欺的なエリートは言葉を巧みに操り、本音を隠して建前のみを前面に押し出してくる。非常にタチが悪い。
 非常にタチの悪い人間性の表れとして、人の手柄を自分のものにしようと画策する「あれオレがやったんだよね」を連呼する人物。既にこの記事内に彼の名前は出ているが、知る人ぞ知る偽善者である。正義のミカタというテレビ番組に出演しているが、彼は刹那的な新自由主義者であって、竹中平蔵氏と同じ部類の人間である。国に資産があるから財政出動をしても問題ないと言っているが、それは日本の国益である資産を売り払うことを想定してのものだ。これは国賊的な思考であり、看過してはならない。
 ヴォルテール曰く、
 本心を偽るためにだけ言葉を使う者がいる

 

 

 

近畿大学職員組合
近畿大学執行部の軽率さ


 


経済同好会新聞 第373号 「育まれない国家社会」

育まれない国家社会

育まれない国家社会

育まれない国家社会

感性は理性では生まれない

 人間がアイデアを出す、あるいは、ひらめきのようなものを得るというのはどういった時なのだろうか。世界の中でも日本という国があり、その中でも都道府県があり、それぞれ市町村がある。各々の文化や慣習は伝統を生みだし継承されていき、洗練されていくものだ。感性の下地は「淡泊な理性」から生まれ出ようもなく、複合的要因によって感性は育まれていく。
 全世界が同じ秩序の下、理性でもって社会を回していくことを善とする者はいるだろうが、果たしてそうなのだろうか。理性主義者の偏りは、合理的に過ぎるところだろう。故に、伝統や文化は非効率として切り捨てることを平気でやり出すのだ。身を切る改革を前面に出す大阪維新の会等はそうであるが、テレビパフォーマンスのみ目立っているだけで、思想は極めて新自由主義的で淡泊だ。刹那的ともいうべきか。
 日本文化の恩恵を受けてきた者が新自由主義に「なびく」姿は、恩知らずとも言うべきではないか。恩知らずは人を裏切り、他者やシステムが邪魔となれば排除しようとする。これの意味するところは、このような人間に地元や国家への愛着があろうはずもないところ。規制緩和だ!岩盤規制が!という輩も同類だ。わざわざ公的資産である国家(国民)の権益を外資や民間企業に明け渡そうとするのは、将来世代のことを度外視している証左である。この振る舞いはグローバリストのそれであり、恩をあだで返す行為だ。
 もし、とうの昔に伝統や文化を捨てていたならば、恐らくは日本のアニメや漫画はここまで育っていなかっただろう。これまでの文化の継承があったからこそ、絵的センスは外国のそれとは違い、日本独特なタッチがあるのだ。これは何もアニメや漫画に限らずであり、食文化等にしろ様々な恩恵を昔から受けついでいる。

 

恩恵のバトンタッチ

 映画界に影響を与えた、日本を代表する故黒澤明監督は次のように述べていた。

 

 コツコツと、少しでも完璧なものを作ろうと、来る日も来る日も工夫に工夫を重ねて、何代も受け継いできた技がある。そんな職人たちにとって、もの作りが人生なんだ。継承する人もなく、材料も手に入らない。こういうことを助けるのが国だろう、それが文化を守るってことだ。

 

 ここで分かることは、技術の継承だ。育みとはお金と時間がかかるものであって、これを短期成果や採算性を求めるようになると、非効率だと言って切り捨ててしまう。市場原理主義がこれだ。
 伝統や文化を尊ぶ姿勢とは、「国家を守る」姿勢と同義である。科学や教育にお金をかけず蔑にする政治は、国家観なき者であり独り善がりだ。やれグローバルだ市場原理だと口先だけで大風呂敷を広げるが、この数十年衰退しているじゃないか。本来は昔から受けついできた恩恵は、永続的に将来世代に渡すものであって、独自の解釈でこれを止めてはならない。
 勉学が出来ても、恩知らずとあれば簡単に国を傾かせられる。とにかく技術の進歩はある程度遂げてきた我が国だが、政治にいたっては歴史に学ばず進歩しない。そのため、現在進行形で苦しむ庶民がいるのだ。このような状況で将来世代に恩恵を継承することは望みようもない。歴史を顧みようとしない者は、将来世代のことも考えまい。

 

 

 



 

経済同好会新聞 第372号 「浮足立つ軽薄さ」

浮足立つ軽薄さ

浮足立つ軽薄さ

浮足立つ軽薄さ

国家・国民を毀損する者達

 冷戦以降、労働者を守るはずの連合トップがエリートぶるようになった。前号でも「エリート人」を取り上げているが、このような変節は連合にしろ民主党にしろ同様である。守るべき労働者をそっちのけで、少数者と呼ばれる人達の保護に必死になり「片手落ち」の様相だ。昔の左派は庶民の声を聞き、政治に反映させるための努力をしてきたが、現代の左派はエリートぶって経済政策は自民党と大差ない。このような現象は何も我が国にとどまらず、アメリカやイギリスでも同様である。
 大多数の庶民の声を代表して声をあげてくれる政党が左派にも右派にも極めて少数なため、政治に反映されることはないのだ。大手マスコミもグローバル化によって役に立たなくなり、その一方で庶民はインターネットを通じ、グローバル化の弊害が出ていると声を上げるようになった。これはグローバル化による理不尽に対する反動だろう。更に言えば、マスコミとネット世論を比較すると、現実からアプローチしている庶民とは相当にかい離がある。それは「切実な生活の営みの体験者」と「淡泊で宙に浮いたようなグローバリズム的」なメディアの言動では当然であろう。このように二分するのは理の当然である。

 

人間とは歴史の生き物

 我々が日本語を話し、日本語のジョークや日本的な感性がしっくりくるのは、言わずもがな日本人だからだ。外国人が日本へ観光に来るのは、違う文化を味わうためであって、これは日本人が外国へ観光に行っても同様である。相互に恩恵があるのだ。この世界が金太郎飴みたいにどこも似たような文化や景観であれば、旅行に行く動機は限られてしまうだろう。
 更に、グローバル化によって移民が押し寄せれば、その地で根付いてきた文化も希薄になるのは西洋が辿った道であり、その二の舞になることは容易に推測される。移民が文化や思想を持ち込んでくるのだ。自国の秩序が厳格であればその限りではないが、多様性とうたって可哀相だから受け入れる等とやっていれば、秩序は簡単に破壊されてしまうことは火を見るより明らかである。ただでさえ国家観が希薄になった我が国では、相当に危機的状況にあると認識せねばならない。
 自国に元々住まう人々の伝統や文化を破壊することなく、これら背景にある慣習とも言える生活様式を脅かすようなことはあ ってはならない。歴史に学ばない政治は危険だ。文久生まれの思想家・文人であった岡倉天心曰く、

 

 われわれは、われわれの歴史のなかにわれわれの未来の秘密が横たはつてゐるといふことを本能的に知る。

 

 歴史とは教科書に記されただけの遠いものではなく、厳然とした人々の営みがあり、我々は生まれてここにいるのだ。故に、人間は歴史から逃れることも出来なければ、歴史から学ぶことで教訓にすべきことを見出すのである。加えて、脈々と紡がれてきた生命、つまり、我々が生まれてここにいることを確認した時に、歴史の重みを知るだろう。
 現代のようなエリートと呼ばれる者達の軽々しさ、新自由主義的な宙に浮いたような代物は、伝統や文化の重みと比較すべくものではないが、非常に不安定だ。木々は地中に根を張るが、今のエリートはオブジェをそこに置いただけの見てくれのみ重きを置くようだ。

 

 



経済同好会新聞 第371号 「機能しない国家」

機能しない国家

機能しない国家

機能しない国家

自由も道徳も破壊する「エリート人」

 実は当新聞の3つ前の記事から前号は、グローバル化について述べている。グローバル化を受け入れた西欧は伝統文化が希薄になったが、我が国も例外ではない。希薄になる原因はエリート層からはじまる。どういうことか。自国に住まい、地元に住み続ける人々にとっては文化や慣習は右へ倣えではないけれど、営みの背景にある。これを古いものは新しく改革だ等と言い始めるのはほとんどはエリートであり、グローバリズム新自由主義的な思想を持ち込んで来たのも彼らだ。
 この場合のエリートとは官僚を指して言ってるのはなく、文化の破壊を顧みることなく、ビジネスのためなら政治に圧力をかけルールを変えてしまう者。更に、「多様性」等と言い、移民を受け入れることに情緒論で諭して来る者達もそうだ。これら方便はグローバル企業に利用されており、移民は低賃金労働者として雇用されるのである。これらについては、移民と自国民とのパイの奪い合いになる懸念は長らく指摘されており、そうであっても自公明与党はごり押ししてきたのだ。背景には政治的圧力をかけている特定企業があってのものだろう。誰が自由と道徳の破壊者であるかは推して知るべしである。

 

多様性という非多様性

 文化は昔から脈々と続く慣習により成り立っている。これを古いと言って切り捨て、新しいと思われることを受け入れることが多様性だと思っている人達が危険なのは、その文化をなくせばこれに紐付く多様性が消失することを考えていないからだ。多様性をうたうことには、熟慮が必要不可欠である。あれを受け入れたら、こちらのいくつかを失ってしまったという本末転倒は、多様性という言葉が方便化し、実は多様性を破壊してしまうのである。
 これと同様に深刻なことが「無駄の削減」だ。例えば、津波や河川の氾濫に治水事業として支出していたものを、強固にすることなく逃げれば良いとして公共事業を削減する等がそうである。これは国民生活の安全保障の問題であり、削減を提言してきた者は大罪人だ。更に、モノは外国から輸入すれば良いとして、築き上げてきた内需を蔑にすることもそうだ。この場合は「構造改革」であるが、「多様性」にしろ言葉を方便化する「エリート人」が我が国を牽引したことで、衰退させた事実は揺るがない。
 多様性という言葉を用いる者は次の通り。

 

 ・ビジネス屋の金儲け

 ・金持ちの自己満足

 

 これら「エリート人」に共感した人達が新自由主義的な思考に陥っているところも特筆すべきであろう。多様性とは、確固たる土台があってのことだ。この土台を破壊してまで多様性を受け入れようとすると、それはもはや非多様性である。
 元々あったものを排他していては、多様性をも って多様性を否定する本末転倒が起きていると理解すべきだ。したがって、多様性を論ずる場合は熟慮が必要だと言うのである。構造改革や税制改革に然りそうなのだ。改革という言葉のつくもの、その反対側で多国籍企業が潤い、庶民の生活の質は下がった。
 多様性という言葉が方便化した時、「相手を言いくるめるための手段」になりうる。言葉を尽くすこともなく、いかにも新自由主義的な振る舞いではないか。

 

 

ツェリ子様
自国民に厳しい政府