経済同好会新聞 第319号 「財政均衡の支持者とは」
財政均衡の支持者とは
国民を不幸にしても優先される規律
先日、財務省の矢野財務次官が雑誌に寄稿したことで炎上したが、音沙汰はないようだ。総裁選候補における公約(口約)が確かなら、日本経済、ひいては国民のためにならない内容を寄稿した矢野氏を、岸田政権は厳正に処分し責任を取らせるべきだった。そうしないのも、財政均衡派にとって財務省は利用価値が高く、そこに忖度したと見るべきであろうか。
財政規律は財政収支の均衡を守ることを規範するものであるが、何度も口酸っぱく述べてきたように、それは金本位制(税財源)が前提であり、我が国は管理通貨制度(非税財源)である。わざわざ税を財源とする金本位制のようにしたがる理由は、インフレを嫌うグローバリスト(国際投資家)の意向が働いているからだ。当新聞で述べてきた「株主云々(でんでん)😂」もこの話である。自民党は彼らに忖度しているのだ。経団連の増税を促す言動も全く同根であり、労働者への分配よりも株主への分配に力を入れていることからも明白である。したがって、財務省、グローバリストも自民党も国民の幸福を目的にしてはいない。共通するのは自己利益最大化である。一握りの利益のために、我々大多数の国民は蔑にされているのだ。竹中平蔵パソナ会長を筆頭に、大阪維新の会の言う「改革」に然り。
政治家は政治をせよ
財務省は政治家をレクチャーする話があるが、これは財務官僚に対する過信があるため非常に危険だ。財務省は財政規律に対して信念があり、前述したが国民の幸福に寄与することは考えていない。一にも二にも財政規律を全うすることであり、これが出世条件だ。ニーチェは信念に対してこのように述べている。
信念は、真実にとって嘘よりも危険な敵である。
嘘をつく者は真実を覆い隠すが、早い段階でボロが出る。ところが、信念はあらゆる手段を使ってでも、押し通すことにつながる危険を孕んでいるのだ。自民党を見れば分かるのではないか。財務省にしろ財政規律のためならば、国民が不幸に喘ごうとお構いなし。国家公務員の立場ということもあり、仕事に対して潔癖であることは認めるところではあるが、政治家は財務省を制御できるのだ。だがしない。
財務省は財政規律を示すことで、各省庁の予算に対する主導権を握っている。いわゆる「国の借金」で将来世代を人質に取ることと同質だ。そうすることで従わせる。まるでヤクザの論理だ。この論理を政治家も支持しており、我が国は管理通貨制度であることを知らず、純粋に財務省を盲信している議員もいるだろう。そうであろうと、救済しない理由にはならない。国民が税金で苦しんでいようと減税すると言い出せないところも、人間性がでているのだ。
政治家が現状を変えたく政治家になったのであれば、「出来る理由を探る」ことをしなければ、それは政治屋か政党の人員集めならぬ、ただの寄せ集めのサラリーマン政治家である。
我が国は管理通貨制度であり、政治家は政府支出と税収を切り離すところも学ぶ必要がある。財務省は財政規律を信念化しているため、政治で変える必要があるのだ。支出と税収を一致させることを目的化すると、管理通貨制度は名ばかりの猫に小判状態だ。政治家も名ばかりか?