「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第349号 「渋沢栄一が問う現代」

渋沢栄一が問う現代

渋沢栄一が問う現代

渋沢栄一が問う現代

論語と算盤」に答えあり

 当新聞は経済のみならず、経済以外について記事にするのは、経済は「経世済民【世を經(おさ)め、民を濟(すく)う】」ことを意味するからに他ならない。経済学の数式や理論を求める人にとっては物足りないかもしれないが、当新聞は「経済」について間口を広げるための役割を果たそうと日々取り組んでいる。当初は「国の借金のデマ」を払拭したく力を割いてきた。デマの払拭は国民にとって政治的関心を集め、今までの視点変更を求められることになるからだ。
 さて、正論が通じない世の中というのは、正論がネガティブな要因となる時だ。要するに煙たがられる。そうであればどうしても情報を発信する側に工夫を求められ、やがてそれが過激化すればそれもまたネガティブな要因となる。このような現象は決して偶然ではなく、教育の劣化や思想の「在り方」を教える人がほとんどいないところにあるだろう。短期成果主義にしろ、これを是とする人達というのは、短絡的であり極端な考えを持つ人がほとんどだ。渋沢栄一の著書「論語と算盤」に現代を問う言葉がある。次のとおり。

 

 現代青年にとって、最も切実に必要を感じつつあるものは、人格の修養である。維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であったが、西洋文化の輸入するに連れて思想界に少なからざる変革を来たし、今日の有様ではほとんど道徳は混沌時代となって、すなわち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年にはこれが充分咀嚼されておらず、といって耶蘇教(キリスト教)が一般の道徳律になっておる訳ではなおさらなし、明治時代の新道徳が別に成立したものでないから、思想界は全くの動揺期で、国民はいずれに帰嚮(心をよせること)してよいか、ほとんど判断にさえ苦しんでおるくらいである。したがって、一般青年の間に人格の修養ということは、ほとんど閑却されておるかの感なきを得ないが、これは実に憂うべき向である。

 

 解説すると、修養とは学問を修め、道徳をわきまえた正しい品性を養うこと。若者にはこのような人格形成が必要である。明治維新以前までは、社会に道徳的教育は比較的に盛んな状態であったが、西洋文化が入って来ることにより、思想界に少なくない変革を来たした。今日の有りようでは道徳はほとんど混沌するような時代になり、すなわち、儒教は古いと排他されたため、この時代の若者はこれが充分に飲み込めておらず、かといってキリスト教が一般の道徳法則になっているわけでは尚更ない。明治時代の新道徳が特別成立したものではなく、そのため思想界は動揺期、国民はどこに心を寄せることをして良いか、ほとんど判断にさえ苦しんでいるくらいだ。したがって、一般の若者の間に人格の修養がほとんど放置されているかの感があり、これは実に憂うべきことである。

 

 渋沢の憂いは、道徳観、すわなち、それはそのまま国家観につながるため、明治維新以降の我が国の足元がふらふらしている国家の有様を見るのである。加えて、このような状況にある政治や、経団連の足元がふらふらした「国家観なき展望」もまた、経済政策にモロに出ているのである。現実の直視は歴史の直視につながっているはずで、それをしてこなかったツケが何度も起きる「第二の敗戦」であろう。