「経世済民」同好会  -HatenaBlog支部-

経済とはそもそも略語であり正しくは「経世済民」と言います。それは「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」つまり、民を救うことが含まれます。「経済」とは私たちが救われてこそなのです。 経済成長のために私たちが犠牲を払うことはないのです。そんなことを様々な角度から訴えていこうという有志による同好会です。記事は複数人がそれぞれ好きなように書くスタイルです。

経済同好会新聞 第457号 「不確実性はなくならない」

不確実性はなくならない

不確実性はなくならない

不確実性はなくならない

固定観念と偏見は見誤る元

 政府支出によって救済や各分野の投資を求めた際、必ず出てくるのが甘やかせるなという言説。各種税金や保険料等の負担が年々重くなっている事実をもってしても、準備しておかなかった者の自己責任だとばっさりやってくる。
 平穏に暮らしていた人々がルール変更によって備えを余儀なくされたとして、みんながみんな備えられると思う方がどうかしているのではないか。人の顔が違えば考え方も十人十色。そして、その時々の状況によって更に複雑になってくる。この不確実性を理解していれば、ルールの変更は極めて慎重にならざるを得ない。通常はたっぷりと時間をかけ、落伍者が出ないようにしていくものだろう。このバランス感覚を欠く者達が改革だ!身を切る改革だ!自己責任!努力不足だ!と言い出す。
 筆者個人がルール変更に備えられたとして、その家族はどうだろうか。これも可能だとして、他の家族は?他の人達は?市町村単位に広げていくと、備えられる人も備えられない人もいると考えることはそれほど難しいことではない。更に、次は都道府県単位になるとどうだろうか。これは一つの国家単位だ。そして、世界各国という単位があり、そして地球という惑星単位がある。このように拡大していけばいくほど、世の中は不確実性の塊であることは細やかに知らずとも想像できるだろう。自分のことですらろくに制御できない人間、これだけでも充分に推測できるというものだ。自然災害も不確実性そのもの。
 ここまで述べてきたことは詰まるところ、不確実性を加味したルールと補助のようなものは不可避ということ。これからは逃れられず、故に、社会は安定を目指すべきだと言うのである。

 

不確実性を許容せよ

 効率化や無駄を省くことは合理的であるが、先ほども述べたように、人は十人十色だ。エーリヒ・フロム曰く、  確実性の追求は、意味の探求を妨げるものだ。不確実性こそは、力を押し広げることに人間を駆り立てる条件なのである。 確実性は人間が思考する範囲にとどまり、ここで思考停止する。この上でルールを作り全てに適用させることで無理がでてくる。主流派経済学も似たところがあり、学問としても進歩が望めない。疑問としてもたげてくることは、不確実性は経済学だけの問題ではないところだ。
 これは政治もそうであり、色々な分野の知見が必要になるため、各省庁が存在している。重要なことは、不確実性を加味した経済学であり、政治であること。人間の性質を見ていれば、余裕を加味しておかざるを得ないはずで、故に、大前提に不確実性を許容するところから始めなければ容易に見誤る。一定のルールを設けた上でそのレールを走ったとて、不確実性は減るがなくなることはないのだから。
 財政規律もルールの一つだが、このルールで国民や企業が淘汰されていては世話がない。この前提で政治が進められるからこそ国民の負担率が上がり続け、非常にハードモードな生活を強いられる。これは強制的徴税に他ならず、自然に税収が増える政策になっていない証左。つまり、経済政策は機能不全に陥っているのだ。三十年近くもこうなのだから、このような無為無策な、行き当たりばったりの政治に慣れてはならぬ。